イ エ メ ン と は
   知られざる国イエメン
 イエメンはどこにある?「アラビア半島の先端」といっても,ピンと来る人は少ない。サッカーファンなら知っているオマーンの隣国なのだが。

 イエメンで比較的知られていること,知られていないこと。
@ つい最近まで南北イエメンに分かれていたが,1990年に南北戦争で統一された。1994年に再び内戦が勃発したが,現在は直接選挙で圧勝したサレハ大統領のもとで政情は安定している。
A 2,3年前アメリカの駆逐艦がイエメンのアデン港で自爆攻撃を受けた。
B オサマ・ビン・ラディンの父方の出身地(ビンラディンの生家?)はイエメン。
実家の写真がある。⇒こちら
C モカコーヒーは,イエメンの港「モカ」が発祥の地
D 紀元前シバの女王で知られる「シバ王国」はイエメンのマーリブにあり,古代アラビアの中心地であった。
E 古代から地中海とインドを結ぶ通商の要地として栄えてきた。
F 当時の特産品「乳香」がヨーロッパや周辺国で珍重され,シバ王国に繁栄をもたらした。

 ほかに,
@ イエメンはアラブ人にとって心のふるさと。
A 古代から続く部族社会が残っている。
B アラブで石油の採れない国のひとつ(現在は砂漠で採掘されている)
C 茶色の外壁に窓の周囲を白く塗った石造りの家並みの景観が美しい。
D 砂漠地帯に「砂漠の摩天楼」と呼ばれる高層建築の町がある。
E なぜかイエメンは「幸福のアラビア」と言われている。
 と言ったところか。


イ エ メ ン の 素 顔


 期待したイエメンと現実のイエメン,果たして現実は?

▽ イエメン人の風貌
 イエメン空港に降り立ち,先ず感じたのは,男たちの面構えだ。とくに年配者はそうであるが,つい6,7年前まで南北に分かれて戦いをしてきただけに,いずれも古武士然とした厳しい容貌をしている。
 この面構えこそ,薩摩の武士を連想する,予想していたイエメンの姿だ。
且つ,ほとんどの男は,腹にジャンビーアという短剣を帯びている。ジャンビーアは,日本刀と同じ「戦士の魂」であるという。簡単には抜かないが,抜いたときは最後だ。
 しかし,イエメン人の我々に対する視線は,「よそ者」を警戒する険しい目ではなかった。薩摩人がよそ者を強く警戒する意識を持っていたことを考えると,やや意外な感じがしないでもなかった。
 外国人への礼儀は重んずるが,敵対する部族に対しては厳しい目で見るのかも知れない。地方に行く道中,何度も部族による検問所で止められた。そこには,制服ではない若者が自動小銃を肩に,車の検問を行っていた。
 1回,気づかず通常のスピード(100km/h近い)で通り過ぎようとして,バラバラッと出てきた部族民に銃口を向けられて,取り巻かれたこともある。しかし,ヤーバーニー(日本人)と聞くと,すんなり通してくれた。

▽ イエメンのクルマ
 意外だったのは,走っている車。その99%は,日本車それもTOYOTA車であった。4WDのランドクルーザ,ピックアップトラックが多い。山岳地方の坂道,原野,砂漠,舗装路,どこを走るにもランクルが一番適しているという。新車はあまり見かけなかったので,中古車を持ち込んでいるものと思われる。
 バイクについて言うと,砂漠のシバーム周辺を除くと,思ったより少なかった。バイクのほとんどはSUZUKI製で中国製がちらほらだった。

▽ イエメンの子供たち
 イエメンは,どこに行っても子供が多い,歴史は長いが人間は若く活気がある。
子供たちは,人なつっこく無邪気に「ヤーバーン,ヤーバーン(日本)」と声をかけてくる。町中を見学していると,3階,4階の窓から小さい子がヤーバーンと呼びかけてくる。日本人と分かるらしい。ヤーバーンの次に聞くのが「スーラ,スーラ」,写真をとって,ということだった。
 カメラを向けると我もわれもと集まってくる。デジカメで撮った写真を見せると,小さい子から年長の子まですごく喜ぶ。みんな目がパッチリしていて可愛い。
 スーラのほかに欲しがるのは,カラムだ。鉛筆かペンシルが欲しいらしい。
以前,日本のテレビ局があちこちで鉛筆を配ったのが原因らしいが,どこに行っても子供たちは「スーラ,スーラ」「カラム,カラム」だった。
 といっても,物を欲しがるというより,外国人への興味や好奇心のようであった。


▽ 攻防の歴史を物語る「城塞都市
 イエメンに興味を引かれ理由に,イエメン人の気質に触れたかったこともあるが,写真で見る窓周りの白い茶色の建物群の異国情緒を実際に見てみたかったこともある。

  イエメン人はセム族という単一民族らしいが,それぞれ地方では部族社会を築いている。
服装にも部族の習慣があり,頭に被るマッシャッダ(ターバン)の巻き方も部族で異なり,頭を見れば出身部族が分かるというほど。結婚も部族内の親が決めた相手。
 こうした部族の結束は,古代アラビアに遡る過酷な抗争の歴史によるものと思われる。
 ほとんどの部族の町は,守りやすく攻めにくい山の上の「城塞都市」,平地の場合でも,町の周囲を高い城壁で囲って「城塞都市」になっている。

 この城壁に囲まれた町の建物の外観がどの町も素晴らしい。茶色の外壁に白い窓枠がマッチし,美しい町並みを見せている。想像したとおりの素晴らしいイエメンがあった。

▽ 山岳部族の町「シャハラ」
 イエメンの西南側3分の1ほどの国土は,標高2,000mを超える岩山の山岳地帯である。首都サナアも高地にあり,人によっては,高度障害を引き起こす。

 サナアから北西へ約100kmの山岳地帯の,ひときわ高い山の上に「シャハラ」という山岳部族の町がある。山の上の町の高さは,九州最高峰の屋久島宮之浦岳(1,935m)よりも高い2,600m。
 ここまで行く道がすごい,サナアからフスまで舗装路を快適にとばし,途中,部族の検問で何回か止められる。フスからは幹線道路をはずれて,道とも原野とも区別のつかないダートコースを約1時間走ったところで,山の麓の小さな村アル・カビイ(標高1,200m)に着く,ここでランクルから4WDの小型トラックの荷台に乗り換え,運転者は小銃を持ったベドウィン族の案内人,すぐに岩がゴツゴツした坂道を登り始める。
 ドライバーは,しばしば4輪駆動に切り替え,器用に大きな岩をさけてトラックを登坂させる。我々が登ったときは,途中珍しく雨になり,一時坂道の脇にあった洞窟風のところで雨宿りした時間を含め,山頂の「シャハラ」の町にたどり着くまでに1時間40分ほどを要した。

 それにしても,シャハラはすごい。外部からの侵略を避けるためとはいえ,こんな4WDのトラックでもあえぎあえぎ登るような急峻の山頂に町をつくるとは。麓のアル・カビイから歩けば7時間はかかるという。
 シャハラの町には,学校も,もちろんモスクも,貯水池もあり,山腹には自給自足を支える棚田のような小さい段々畑が可能な限り辺り一帯連なっている。
 今でこそトラックが登ってくるが,車が普及してからたかだか50年,それまで町の住民は,自給自足でほとんど下界に降りることはなかったであろう。
 このため,19世紀,イエメンがオスマントルコに占領されたときも,山岳の要塞シャハラは,頑強に抵抗し,唯一陥落しなかったという。

 シャハラにはまた,イエメン人も憧れるという所がある。
 それは,急峻な2つの山を繋ぐ橋である。「シャハラの橋」として知られ,イエメン硬貨にもデザインされている。
 行く前,ガイドブックに有名な橋があるとの記事があり,また,イエメン紹介HPでもたびたび話題になる「幻の橋」だった,想像するほかなかったが,シャハラへ登る途中,はるか頂上に小さく橋が見えたときは,「あれか!!なるほどすごい所に」と,納得した。
 シャハラに着いて真っ先に行ったのが,この橋である。
 切り立った崖が並行して立ち上がったところを,この橋が結んでいる。 現在の技術や機械力があればともかく,標高2,600mの山の上でどのようにして人の力で組み立てたのか,とにかくすごい。この橋もオスマントルコが攻めてきたとき1回は自らの手で落とし,今あるのはその後修復したものだという。
 我らは,シャハラのイエメン式の宿屋さんに1泊した。
 山頂の町から,向こうの山に夕日が沈むのを見,早朝,昇ってくる朝日を迎えた。



▽ 世界遺産 
@ほとんどの古代遺跡は,廃墟と化して人は住んでいないが,首都サナアの旧市街(オールドシティ)は,景観も素晴らしいが,今も昔ながらに人々が生活しており「生きた遺跡」とも言われる世界遺産である。
 昔から,サナアの旧市街では,建物もスーク(市場)も,今と同じように,ザンナ(民族服)を着てジャンビーアを差したイエメン人が,塩や穀物を売り買いしていたのだ。
 店の主人は,客を呼び込むでもなく狭い間口の奥に座り,客がきても無愛想に応対している,そうした姿が何百年も続いてきたのであろう。
 旧市街の中を歩くと,自分の国を,現実を忘れ,ふと,歴史の中のアラビアンの世界に迷い込んだような気がする。

A世界遺産のもう一つは,イエメン中央部砂漠地帯にある「砂漠の摩天楼」と呼ばれるシバームの高層建築。シバームという城壁で囲まれた城塞都市の建物は,紀元8世紀ころから造られ始めたという7,8階の石造りの高層ビルである。その高さは約30m,町の中に500個のビルが密集しており,一見すると近代都市に変わらない。
 城壁の中は,他の町と同じように,スークがあり,裏町にはいると山羊が数匹遊んでいた。昔も今も同じなのだ。
 驚いたことに,温度41℃という砂漠の町のスークの一角に「魚屋さん」が数点店を出しており,鰹節風の乾物と共に炎天下生の魚も売られていた。


▽ 女性
 イスラムの教えを厳格に守るイエメンでは,昼夜とも町中で女性を見かけることは少ない。男,男,おとこばかりである。たまに見る女性は,黒いアバヤに黒いスカーフで全身を覆い,見えるのは目だけ。
 イエメンに着陸する飛行機の中で,カラフルな服装をしていた子供連れ夫婦の奥さんが着陸が近づくと,目だけを出した黒一色の服装にいつの間にか変わっていたのが印象的だった。
 女性は,外に出ると男の邪視を浴びるので,それを防ぐために全身を黒で覆い,できるだけ外に出ないようにし,買い物も男がやるらしい。
 外に自由に出れないのでイエメンに恋愛はないということになる。昔の薩摩と同じ,女はできるだけ控えめにさせ,結婚は親が決める。
 もっとも,人口の多いサナアの旧市街スークでは,男性に伴われた黒装束の女性が品物を物色する姿も見られた。

 イエメンは男社会である。食堂のウェイターや店番も全員男。
 男は,ワンピース風の民族衣装にスーツの上着をきて,腹帯にジャンビアという短剣を差している。地方では,腰に拳銃を吊っていたり,自動小銃を肩に持ち歩いている男をよく見かけた。自動小銃の弾倉にはちゃんと真鍮色の弾が満杯装填されていた。ほとんど旧ソ連製のカラシニコフである。
 1994年まで南北で内戦をしていた名残なのか。それとも男としてのステータスを維持するためか,部族間の抗争に備えるためか。砂漠の民の習性か。


▽ カート
 一般の男が何で家族を養っているのかはよく分からないが,家族を養うほかにイエメンの男は毎日500円ほどの金が必要である。
それはカート購入資金だ。昼を過ぎると,どこで何をしていてもカートタイムが始まる。普通,知人宅に集まってカートパーティになるらしい。
 カートは,「枝についたままのお茶っぱ」によく似た葉っぱである。咬んだ感じも少し苦みがありお茶の葉に似ている。少し咬んだぐらいでは何ともない。
 イエメンの男は,ビニール袋に入った新鮮なカート葉を昼までに手に入れ,午後になるとむしって咬み始める,たくさん咬めば覚醒効果があるのか,次第に酔ったような感じになるらしい。我らのドライバーも昼食後はカートタイムになり,しばし休憩。
 普段から陽気な彼らはカートが効いてくると,良く喋るようになり,歌を歌ったり,酔っぱらい風である。カートはビニール袋一杯で350〜500円。市場で売っている。
 イスラムはアルコール禁止,もちろんビアホールも居酒屋もない,パチンコなし,トンカツなし,街中でミニやキャミソールの若い女性を見ることもない。映画館だけはありました。このためイエメンでは,カートが唯一?の楽しみ。男は,大人だけではなく,時には子供も頬をふくらませている。
 このため,カート生産は相当量になりイエメンの一大産業である。南部山岳地帯の段々畑には一面カートが栽培されており,善し悪しは別にしてイエメン経済に大きな影響を与えている。

  
▽ ネット事情
 我が家に旅行の様子を知らせるためにネット屋さんを捜していたところ,サナアの街中で1軒見つけた。
 サナア滞在の日,夕食後に訪ねてみた。20台ほどのパソコンが置いてあり,イエメンの若者が向かっている。画面はもちろんアラビア文字,Outlookの言語を切り替えようにもアラビア文字ではOKなのかキャンセルなのか全く分からない,且つ,画面の文字列は右から左,EnglishかJapaneseはないか聞くと,店番の少年が切り替えてくれたのは中国語だった,まだこの方が分かりやすい。
 何とか自宅のWebメールにたどり着いたが,何しろ遅い,アドレス帳を開こうにも,待てども待てども送ってこない。やむなく分かっているアドレスにローマ字で本文を打ち,送信(送信ボタンも分かりにくかったが)するが反応が返ってこない。そのうち,使用単位の1時間になったので,これ以上待っても仕方ないと思いあきらめて帰った。使用料は格安だったけど……。
 巷でもPCはほとんど見かけない,あるのは大きなホテルのフロント程度。だが,ジャンビーアを差したイエメン人がキーボードに向かう姿は似つかわしくない…,と思う。


  
▽ 幸福のアラビア
 イエメンがなぜ「幸福のアラビア」なのか,かつて,アラビアは3つの地方に分けて呼ばれており,一つは現在のサウジアラビアを中心とした砂漠地帯の「砂のアラビア」,二つ目に現在のシリア,ヨルダンを中心とした「岩のアラビア」,この二つのアラビアに比べ,イエメンは地中海,アフリカ,インドを結ぶ海上交通路の要衝として,また乳香(加熱すると香しい匂いを発散する香料)の産地として栄えていたことから「幸福のアラビア」と呼ばれた。
 現在は,交通経路も代わり,乳香も下火となり,他のアラブ国に出現した石油により,経済的には逆転している。

 しかし,我らが走破したラムラット砂漠の途中には発掘中の油田があり,サナアからマーリブに向かう幹線道路では砂漠方面へ向かう何台ものタンクローリー車を見た。
この油田がどの程度の埋蔵量を持つのか分からないが,いつか産油国として名をあげるときがくるかも知れない。だが,そうなったとき,イエメンが古き良き伝統を保てるのか,サナアにドバイのような近代的ビルが建ち並ぶのか。新幹線の走るイエメンは考えたくない……。

 最後に,今回の旅は案内役のA氏を含め6人(女性1人),皆さん海外旅行のプロ?のような人たちで,年間6〜8回は出かけると言う人もいた。アラブ諸国はもちろん,インド,南米,アフリカ,南極,北極など世界中の普通は行かないような所を巡っている人たちだった。みなさん,いろいろ教えて頂いてありがとう。
 
イエメンの位置
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